【発達障害とコミュニケーション】  大人の発達障害と日本文化を考える「僕はアメリカに生まれてきたかった

私が以前関わっていたあるA青年がある時こうつぶやきました。

「僕はアメリカに生まれてきたかった」

彼の話を聴いて、私は思わず聞き返していました。「どうして?」と。

なぜ彼はこういうつぶやきをしたのか、知りたかったからです。

しかしその後、A君の話を聞き、いろいろな本を読む内に、彼のつぶやきの意味が改めて納得できました。

日本とアメリカ、あるいは様々な国の人々のコミュニケーションの有り方と発達障害者のコミュニケーションの有り方との相違点と共通点について、簡単にまとめてみます。

*なお「A君」やその他の事情については個人情報を守る点から改変を加えてあります。ご理解ください。

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なぜ彼は「アメリカに生まれてきたかった」のか?

なぜA君はアメリカに生まれてきたかったのか。彼の語った話を聞くとこういうことでした。

 

「僕はアメリカに生まれてきたかった。

  日本では暗黙の了解とか,暗黙のルールとか言われるけど、自分はそういう人の気持ちを察するのが苦手で鈍い。

だからちゃんと説明してほしい。なぜ自分にわかるように説明してくれないのか。

 小さいころから『そんなこともわからないのか』と言われたことがあったが、

事前に紙に書いて説明するなりしてくれなければ、わかるわけないでしょう?

日本では場の空気を読めとか、そのうちわかる時が来る、とか言われるけど、

自分に関してはそういうことはできない。ちゃんと説明してくれれば素直に取り組むのだけれど。

 日本という国はそういう意味で、とても生きづらい国だ。」

 

あなたなら彼の言葉をきいてどう思うでしょうか?

私はただただ「なるほど、彼の立場からすればたしかにそうだ」とうなづくだけでした。

 

彼は診断こそ受けていなかったのですが、発達障害圏に属することが日常の様子から読み取れる青年でした。たしかに自閉スペクトラム症の特性として「相手の意図や気持ちを(直観的に)察すること」が苦手だということを考えればよくわかる話です。

 

私ががそう感じた彼のエピソードのいくつかを紹介すると

「お客さんにお菓子を勧めたところ、『ありがとうございます。でも今は結構です』という返事でした。だから僕はせっかくのお菓子だったので、自分でそれを全部食べたのです。すると後から『本当は食べたかったけど、遠慮したんだ』と言われました」

 

 あるいは「友人の女の子が道で転んでひざを擦りむいて血が出ていたのです。そこで僕は『大丈夫?』と聞いたら彼女は『大丈夫』と答えたんです。だからそのまま話をし続けたのですが、後から彼女が『あんなに血が出ていて大丈夫なわけがないでしょ!』ときつく言われたんです。でも僕はその時心配したからわざわざ聞いたんですよ、『大丈夫?』って。大丈夫でないのなら、あの時に大丈夫じゃないって言ってくれればいいじゃないか!」と憤慨するのです。

確かに彼の言う通り、お菓子が食べたければ「いただきます」と言えばいいし、大丈夫でないのならそうストレートにそう言えばよいのですが、われわれ日本人は婉曲にものを言って相手に察してもらう文化に暮らしています。だからそれが読めないと彼のようなトラブルが起きても不思議ではありませんね。しかし彼らが相手の言葉の裏を読めないからと言って、彼らに理解力がないわけではありません。きちんとストレートに言えば、あるいは「こういう場合はこういう意味があるのだ」と説明すれば十分に納得してくれるのです。しかし多くの日本人は説明しなくても「察する」ことを相手に求めるのです。

 

ではこの種のトラブルを回避するにはどうすればよいのでしょうか。

 それにはコミュニケーションのタイプと言うものを考える必要がありそうです。

コミュニケーションのタイプ 

コミュニケーションのタイプについて私が参考にした本は右の2冊です。一つはエドワード・T・ホールの「文化を越えて」。異文化コミュニケーション学の名著です。そしてこのホールの業績を大変わかりやすく、日常生活場面に即して解説してくれた本、エリン・メイヤーの「異文化理解力」。

 

今回は特にメイヤーの「異文化理解力」からできるだけ具体的にコミュニケーションのタイプと発達障害の方々のコミュニケーションへのヒントを考えてみます。

 

まず、メイヤーさんの本の中から大変興味深い写真を紹介します。


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<エリン・メイヤー「異文化理解力」より引用>

ちょっと画質が悪くて申し訳ありませんが、この写真は日本人とアメリカ人の二人の人にそれぞれ「人物の写真を撮るように」と指示を出した結果です。さてどちらの写真が日本人で、どちらの写真がアメリカ人の撮った写真かわかるでしょうか。と言うよりももしあなたが日本人ならば、「人の写真を撮って来てください」と言われたらどちらのような写真を撮るでしょうか?

 

たぶん多くの日本人は右側の構図の写真を撮るのではないでしょうか。そうなのですメイヤーさんの指示に従ってアメリカ人が撮った写真は左側のアップの写真で、右側の全体の背景の中の人を撮ったのが日本人だったのです。

 

この違いはどこから来るのでしょうか?

そしてそれが私たちのコミュニケーションの有り方にどういう影響を与えているのでしょうか?

この実験からわかることは、私たち日本人は物事をとらえる時に必ず全体の文脈(コンテキスト)の中で物事を把握しようとする文化だということです。逆にアメリカ人は、「人を撮る」という指示をストレートに反応して「人」だけを撮ったのです。ここまでくると、最初のA君の発言がなんとなくわかってくるような気がします。

 

つまり「なぜストレ―トに説明をしてくれないのか」「(暗黙の了解とか暗黙のルールが当たり前の)日本という国はとても生きづらい」と言う彼の言葉は発達障害圏のコミュニケーションがある意味「アメリカ的」だということです。

ハイ・コンテキスト文化とロー・コンテキスト文化の違い

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<「異文化理解力」エリン・メイヤーより引用・一部改変>

さて写真の撮り方でもわかるように、私たち日本人はハイ・コンテキストなコミュニケーションを常とし、アメリカ人はロー・コミュニケーションなコミュニケーションをすることがわかります。これは両国だけでなく、世界の国々を見ても同様な傾向があります。上の図はエリン・メイヤーさんの著書から引用・一部改変した図ですが、ご覧のとおりハイ・コンテキスト(文脈を読む)コミュニケーション傾向の国とローコンテキスト(内容中心)コミュニケーションの軸のいずれかに多くの国々が位置づけられるようです。

その中でも日本とアメリカは最極端な対極であることがわかります。

 

ちなみにロー・コンテキストの代表としてのアメリカ人であるエリン・メイヤーさんは幼いころからいつも「きちんと口で伝えよう。伝えたとおりに行動しよう」と教えられ、アメリカ的なルールである「まずこれから伝える内容を伝え、それから内容を伝え、最後に、伝えた内容を伝えよう」という哲学を教え込まれたといいます。なんと日本の「察する文化」と異なることか!

 

さらにこんなエピソードも紹介されています。

アメリカ人と日本人が異文化マネージメントについて議論をしました。そこで日本人が「日本では成長するにしたがって、それとなく伝えることや、相手の行間を読むことを暗黙のうちに学びます。・・・中略・・・・数年前その年の新語・流行語に『KY』という言葉がノミネートされました。Kuuki Yomenai の略語で、つまり行間を読む能力が全く欠けている人のことを指します」と紹介すると、そばにいたアメリカ人が「ということは、私たちアメリカ人はみなKYですね!」と言ったということです。

(*しかし賢明にも(?)その日本人はそのジョークに対して慎重に、笑顔を見せなかったと言うことです。馬鹿していると思われたくなかったのかもしれませんね(笑)ここにも日本人の特性がよく出ています)

 

確かにA君が「アメリカに生まれたかった」というのもうなづけますね。

発達障害(時に自閉スペクトラム症を中心とした)圏のコミュニケーション問題について

さてもしA君の言うとおりだとしたら、発達障害圏の人のコミュニケーションは、アメリカタイプのロー・コンテキスト・コミュニケーションだということになります。ここまで対極にあるコミュニケーションスタイルの違いを乗り越えるにはどうすればよいでしょうか?

これは間違いなく「異文化コミュニケーション」の問題であるといえるのではないでしょうか。そう考えるとA君の悩みは「人の気持ちを理解できない」という障害に起因するものであり、「特別な支援」が必要であるという「日本においては多数派である定型発達者というハイ・コンテキスト・コミュニケーターが、少数派のロー・コンテキスト・コミュケーターに一方的に手を差し伸べる」という見方に疑問が湧いてきても不思議ではありません。

 

むしろ異なるコミュニケーション・スタイルの理解と相互関係の持ち方の問題であるということもできます。であれば、むしろ関わり方を変えなければいけないのは多数派であるハイ・コンテキスト・コミュニケーターの方であり、そこに自覚的にコミットしていく姿勢が求められているのかもしれません。

「定型発達障害」と言う考え方 ~相対的な見方~

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これまで見てきたように、私達日本の文化自体が非常にハイ・コンテキスト文化であり、そういう意味から発達障害の方々にとってはコミュニケーションの難しい文化であることがお判りだと思います。そうであるがゆえに、この社会ではロー・コンテキスト・コミュニケイターである発達障害の方々が苦労を強いられているわけです。

 

ただし繰り返しになりますが、当然のことながら、ハイ・コンテキスト・コミュニケーションが絶対の正しい(?)有り方というわけではなく、ロー・コンテキストの文化からすれば、われわれ日本人のハイ・コンテキスト文化こそが異質で違和感のある文化ということになるのです。こういう文化に対する「相対化の視点」が異文化交流においては欠かせないと言えるでしょう。つまり「自分達の常識が相手の常識とは限らない」というわけです。こういう物の味方・考え方の「相対化」を視点に据えて発達障害者のコミュニケーション問題を見直した時、非常に違う景色が広がってきます。

 

 

上の本をご存知でしょうか?「アスペルガー流 人間関係」と言う本で14人のアスペルガー症候群の当事者が書いた「人間関係」をめぐる苦闘の記録です。発達障害と言うのはこの社会においては圧倒的に少数派です。したがっていわゆる定型発達者という多数派によって作られたこの社会に置いては「特別な支援」が必要とされる存在ですが、もし視点を少数派の彼らにおいてみた場合、多数派の人たちは『定型発達症候群』と呼ぶこともできるということが、この本では提唱されています。

 

つまりこの社会での少数派の発達障害的特性を基盤として、多数派である定型発達者の行動様式を相対化してとらえなおすと、定型発達者こそが、ある意味発達に特有の特性を抱えた存在であるとこの本の中の著者の一人、ルーク・ベアドンは指摘します。彼はそういう意味を込めて「定型発達症候群」をいう造語をつくり、定型発達者の特性をこう指摘します。

 

「定型発達症候群(*)は神経学的な障害であり、社会の問題に対する没頭、優越性への幻想、周囲との適合への固執という特徴を持つ。定型発達者は、自分の経験する世界が唯一のものもしくは唯一正しいものであるとみなす傾向がある。定型発達症候群はひとりでいることに困難を持つ。・・中略・・・定型発達症候群は率直なコミュニケーションを苦手とし、自閉スぺクトラム症の人に比べてうその出現率が高い」

(*岸井注:もちろんこういう疾患は現在の社会では存在しません。あくまでも発達障害者の視点から定型発達者を見た場合、多数派の定型発達者の方が「発達障害」となる意味を込めたこの本特有の造語です)

 

そう考えると、「多数派が少数派を障害者扱いして支援をする」という観点を相対化して、「お互いの違いを認めて、お互いが歩み寄る」という異文化交流の視点から考える必要があるのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか?

ではどう対応すればよいか

では具体的にどうすればよいでしょうか。

私は異文化交流の専門家ではないので詳しくは語れませんが、常識的には「まずお互いを知る」と言うことではないでしょうか

まず発達障害児・者の行動特性やコミュニケーションの特徴、認知の特性や理解の仕方について知識を深めること。さらに発達障害と言っても当然のことながら一人ひとり違います。Aくんの場合とBくんとでは異なります。したがって一人一人についてよく知ろうとする姿勢を持つこと。それには本人に聞いてみるのが一番良いかもしれません。冒頭でA君が自分の特徴について語ってくれたように、まず「知ること」「教えてもらうこと」から始める必要があるでしょう。

 

もっともAくんのように自分自身をふりかえり、言葉にできるようになるのはそう簡単ではありません。「自分自身に対する自覚」に難点がある発達障害の方々の場合、言葉にできないがために様々なトラブルになってしまうこともあります。そういう点では周囲の人々の観察と共感能力が大変重要になります。それはむしろ定型発達者の得意とする分野かもしれませんね。

 

そして次に「自分自身についても知ること」でしょう。我々の彼らに対するコミュニケーションが彼らを困らせていないか?

こちらの言い方を理解できない方が問題なのではなく、彼らに伝わるようなコミュニケーションをとれていない自分たちについても振り返る必要があると思います。そしてそのことについてお互いが心を開いて伝え合う、認め合う、トラブルは工夫と努力で乗り越えていく、ということになるかもしれません。日本の定型発達者の得意とする「察する」「裏を読む」というスキルが、相手に対してだけでなく自分のコミュニケーションのスタイルへの振り返りについても適用されて、異なるコミュニケーション・スタイルの橋渡し機能となることが求められているのかもしれません。

 

そのノウハウは特別支援教育や家庭での工夫を紹介する本やサイトに数多くヒントがあります。もし効果がなかったり適切な方法が見つからなければ、自分で工夫をしてトライアンドエラーでノウハウを蓄積し、共有していきましょう。引き出しは多ければ多いほど役に立ちます。

相互理解のために

さてAくんの発言や先の図でもわかるとおり、考えてみれが日本の文化・コミュニケーションスタイルは発達障害者にとって非常に生きづらい状況です。ですからA君が「アメリカに生まれてきたかった」と言ったのはまさしく的を得た発言だったのです。

 そしてそれを考えた時、日本に住む私たちは世界の中でも飛びぬけて「自閉スペクトラム症を中心とした発達障害児・者に対する相互理解」が求められているのかもしれません。そのモデルとして「異文化交流」の様々な分野からヒントを得ることができるのではないかと期待しています。

 

もちろんこの考え方は発達障害に限るものでないでしょう。LGBTや他の障害を含むさまざまな問題が単に少数派であるということから特別扱いを受けたり差別を受けたりするのはおかしいことでしょう。これらの問題は、今後の我々の生き方や価値観や文化の多様化という問題に投げかけられた厳しい問いかけなのかもしれません。

 東京オリンピック・パラリンピックを控え、「障害者」が特別な存在で支援されるべき弱者的存在であるという、一方的な見方が変わってくれることを願っています。