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与えることと犠牲になること

「与えると枯渇したように感じる人は“与えている”のではなく、“犠牲になっている”のです」

 

  アメリカの心理学者チャック・スペザーノさんのことば。

う~む、なかなか意味深い言葉です。日本でも有名になった作家トルストイの言葉に「愛とは惜しみなく与えるもの」というのがありましたが、さて「与えること」と「犠牲になること」の違いは何なのだろう?

ちょっと考えると「与えること」は能動的に差し出すことで、「犠牲になること」は奪われること、だと取れます。そういう意味では何かを主体的に差し出すことが、その人のしあわせにつながることが大切なのかもしれません。たとえば「尽くす」なんて行為はそうかもしれません。しかしその能動的な行為が、相手にとって迷惑なものであればこんなにおせっかいなことはありません。やはりそこに相手が必要としているものを感じ取る力が必要でしょう。そういう意味ではこちらが与えたいという気持ちよりも、相手が求めている物を感じ取り、差し出す能力が愛なのかも。

また愛には、男女間の恋愛だけでなく「母性愛」などもあります。母親が子に感じる愛情は「与える」ことと同時に「犠牲になる」ことも幸せにつながっています。生まれたばかりの赤ちゃんの夜泣きや授乳に付き合って睡眠不足になったりすることも、我が子に対する愛に基づくものでしょうから、むしろ睡眠時間を削る行為も、「奪われる」のではなく「差し出して与えている」ということなのでしょう。

また「父性愛」というものもあります。これは「相手が欲しがるものを与える」というような直接的なものではく、「これを与えることが本当に相手の成長につながるのか」という広い観点から見た判断が必要となります。そういう観点から見て判断すれば「与えないこと」の方が相手にとって意味があることも有るわけです。ここが「父性愛」と「母性愛」の違いでしょう。

そうなるとやはり問題は与えるにせよ、与えないにせよ、犠牲となるにせよ、その結果としてこちらが「枯渇したように感じるか」どうかでしょう。これは大切な事ですね。どんな形であれ、「愛」が「義務」や「責務」になってしまうと、即苦しみに変わってしまうからです。人のために、と思って活動したり、身を捧げることが自分にとって苦しみや枯渇感につながっていないか、日々自分のあり方を正直に振り返る必要がありそうです。