「失ったこと」で「気が付くこと」、そして「忘れていくこと」と「物語ること」 -2-

さて前回は「失うこと」で「気づかされること」について、そして私たちはいつの間にか再びそれを「忘れてしまう」ことについて書きました。

 

「失うこと」と「忘れること」は同じではありません。ある歴史学者たちの対談の番組を見ていると、感染症の歴史を研究していた時「なぜ人はこれまで何回も感染症に見舞われ、あれほど苦しい悲惨な目にあいながら、それをいつの間にか忘れてしまうのだろう?」という疑問が湧いてきて師匠に質問したといいます。すると師匠は「それはね、○○君、風景が変わらないからだよ」とおっしゃったということです。

 

確かにここ数十年の単位で日本は「阪神淡路大震災」「東日本大震災」などと甚大な自然災害に見舞われました。そしてその被害に合った地域では沢山の建物が破壊され、焼失し、失われていきました。その意味では日常の「風景」そのものが一変してしまったのです。

 

私も阪神淡路大震災で色々な体験をしました。自分自身の家は部分損壊だったのですが、ボランティアに出かけた兵庫駅の周辺では信じられないように風景が一変していましたし、ボランティをしながら余震に会い、窓から外を見ると崩れかけていたマンションがさらに崩れていく光景が感じられたりしたものです。そういう「目に見える」光景・風景の記憶は確かになかなか「忘れられない」というか「思い出すこと」ができます。

 

しかしこの度のような感染症は確かに外出の自粛で閑散とした街並みがテレビに映し出されはしますが、自粛が解除されると再び以前の風景にすぐに戻ってしまします。そういう意味では今回の経験は今でこそ私たちの記憶に焼き付いていますが、しばらくすると何もなかったかのように「忘れてしまい」やすい体験なのかもしれません(こういうことを書きながら、ニュースに目をやるとなんと政府は「専門家会議の議事録」を残していない、と言います。これでは今回の未曾有の体験もすぐに忘れられてしまうでしょうね)。

 

これでは過去の経験が未来に生きないということになりかねません。困ったもんです。

長くなるので次回へ続けます。