“ゼミ 高い ビルで はたらく。
しごと データ 入力。17ねんかん。
けっきん なし。ミス なし。
トゥク トゥク トゥク!
17ねんかん。 しょうしん なし。
ニンゲン えらいひと 言う、セミ ニンゲンじゃない。
セミ えらい 必要ない。
トゥク トゥク トゥク”
から始まるショーン・タンの絵本「セミ」。
“ニンゲン どうりょう セミのこと きらい。
いやなこと する。 いやなこと 言う。
セミのこと ばかにする。
トゥク トゥク トゥク”
陰鬱な絵や文章を目にすると、「これは俺のことか」と思わず
じっと手を見てしまうお父さんもいらっしゃるかも。
もっともこういう抑圧された状況はサラリーマンだけでなく、ショーン・タンの代表作「アライバル」に描かれたような異邦人というか難民の人生とも重なってきます。
いやそれだけではない、学校でのいじめに苦しみ耐えている子供たちや、日々の生活の中で人生の荒波に苦しんでいるたくさんの方々も同じ思いでいるのかもしれません。
そういうセミは、いつか「自分がセミであること」に誇りを取り戻し、「セミでありながらニンゲンでありたい」という窮屈なこころのよろいを 脱ぎ捨てる時が来る、その時を感動的なタッチでショーン・タンは描いてくれています。
この絵本を読んでいて、私は以前読んだ「ボディ・サイレント 病と障害の人類学」(ロバート・マーフィー)と言う本の一節を思い出しました。著者のロバート・マーフィーさんは人類学者でありながら脊髄の病に侵され次第に四肢麻痺の障害を負うことになったのです。その彼が社会における「身体障碍者」としての自らの存在を見つめなおし「人生の意味」について考察した記録です。
その中で彼はこう述べています。少し長いですが引用します。
「身体麻痺者は、ほぼ文字通りの意味で、肉の虜である。だが思えば、身障者のみならずともたいがいの人は多かれ少なかれ囚われの身だ。自分で作った壁に囲まれて生きること。文化によって建てられ、自分自身の恐怖によって補強された鉄格子の間から人生を傍観すること。
このように文化への隷属が物化され固定化された形は、肉体でできた私自身の“拘束服”よりもたちが悪い。なぜならそれは、からだばかりでなく心の麻痺を引き起こし、思考の静寂を招くから。囚われのこころは、今日の急速な社会変動と混乱の時代がもたらした絶好の機会をみすみす見逃してしまう。
絶好の機会ーーーーそれは、我々が文化の束縛を脱して環境から少しでも我が身を引き離し、自分が何者でありどこにいるのかを疑い、そして発見する機会のことだ。しなやかな心と豊かな想像力をもって、身体障害者はーそして我々の全てはー自由をわがものとすることができるだろう」
我と我が身に、自ら作り上げてしまった窮屈なよろいを脱ぎ捨てる時、この「セミ」が脱皮して大空へと自由に舞い上がるシーンに結び付くのでしょう。
興味があれば、本屋さんで手に取ってみて下さい。
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