自傷行為・リストカットの理解と対応


「自傷行為」とは何か、ということに関しては以前から多くの学者が自分なりの定義を唱えてきました。一般には自傷行為は自殺の手段だろうと思う人が多くいるかもしれません。しかし現代では自傷行為は自殺の手段ではなく、逆に「死ぬため」ではなく「生きるため」の行為の一つだと言われています。アメリカのウォルシュという学者はこういう定義を提唱しました。「自傷行為とは意図的に自分の身体を傷つけることであり、社会的に受け入れられないが、心理的な苦しみを軽減するために行われるという性質を帯びる」、つまり自傷行為は心理的な苦しみから逃れるためになされる行為なのです。(とはいえそれは定義上の問題であって自傷行為が「死」に結び付かないというわけではありません。目的や意味は別にあっても結果的に命を落とす可能性はあります。)


自傷行為とは

自傷行為と言えば一番有名なのがリストカットなどの「切る」行為ですが、それだけではありません。リスカ・アムカなどの「切る」以外に「(コンパスなどで)刺す」「自分を殴る」「壁に頭を打ち付ける」「「(治りかけた傷口を)掻きむしる」「噛む」「(タバコなどで皮膚をやけどさせる」「(意図的に)骨を折る」などなど様々な自分を意図的に傷つける行為が含まれています。また直接的に身体を傷つける訳ではありませんが、結果的に自己破壊に結び付く行為、たとえば「アルコール乱用」「薬物乱用」「へビースモーキング」「摂食障害」「不特定多数との性的行為」なども自傷行為に含まれるとして指摘されています。

 

もちろんその中には精神病の幻覚・妄想に突き動かされて自らの身体を損傷したり、知的障害・自閉性障害等の症状として壁に頭を打ち付けるなどの行為も含まれていますが、今この項で取り上げる自傷行為は先にも述べた「心理的な苦しみから逃れるための意図的な行為」です。

 

ここではその代表として、自ら手首や腕を切る「リストカット」について説明します。

リストカットについて

リストカットとは文字通り手首をカッターや安全カミソリなどで傷つける行為を言います。もう少し上の腕を傷つける行為をアームカット(アムカ)ということもあります。私の関わっている方の中にもリスカを繰り返す人がいますが、彼ら・彼女らはなぜリスカをするのでしょうか。

 

 

それには当人に確認するのが一番です。しかしここで個人的な話を出すわけにはいかないので、数多くのリストカッターの証言をまとめた著書「リストカットシンドローム」「リストカットシンドローム 2」(どちらも著者は ロブ@大月 ワニブックス)から証言を交えて考えてみたいと思います。


なぜ彼らはリストカットをするのか

「リスカするには二つの意味があんねん。一つは言葉にできないことを表現すること。ストレス発散と言ってもいいかもしれへん。もう一つは情けない自分に対して罰を与えるという意味。自罰やね」マミさん(仮名)は自分をふり返ってこう証言しました。

 

そうなのです。リスカにしてもアムカにしても単なる衝動的な無意味な行為ではなく、それぞれ何かの意味や目的を持っているのです。

 

「切ってみると最初は痛くなくて、少し時間がたってから痛みを感じました。“これが心の痛みなんだ”と思いながら、左手首を10回ぐらい切りました」イツキさん(仮名)は、切った後の痛みを感じることで自分自身の心の痛みを実感できたのです。もし彼が切っていなかったら、自らの心の痛みに対して気づくことさえなかったかもしれません。

 

これらの証言を呼んでいると、リストカットにはいくつかの目的や意味がある事に気が付きます。もちろん人によって感じ方はそれぞれでしょうが、一度私の経験から感じたことも含めまとめてみたいと思います。


 ➤【リストカットの意味①】 人に気づいてもらいたい 

すみれさん(仮名)は高校時代、学校の先生にいろいろと悩みを相談するうちに、その先生に対して好意をもった。しかし相談して悩みが解決するにつれてその先生が次第に離れていったことに寂しさを覚えて、「先生に心配してもらいたい」という気持ちからはじめてのリストカットをした。「心の中で“これで先生に会いに行ける”って思いました。」と言う。すみれさんに限らずリストカットをする人の中には「自分に注目を集めたい」という気持ちから切る人がいる。そこまでしなければ愛情も含めた注目が得られない環境にあったのだろう。しかしせっかく(!)切ったにも関わらず、中には関心さえ払いもしない親がいることも事実だ。そしてその寂しさが周囲に対する「注目集め」の意味でさらなるリストカットをさせている場合もある。


 ➤【リストカットの意味②】  ストレスを発散したい、スカッとしたい

先にあげたマミさんの発言にもあるように、切ることでそれまでたまっていたストレスがすっーと解消されるという人もたくさんいる。カヨさん(仮名)もその一人だ。中2の時に友達の一人がリスカをしていて、その彼女が“切るとスッとする”と言って言っていたのが頭に残っていて、その後彼女も切るようになった。そして次第に「流れる血を見ていることはやがてカヨさんの心の安定を得る行為として定着していった」という。


 ➤【リストカットの意味③】 生きている実感を味わいたい

リスカをする人の中には自分が生きている実感を味わいたくて切る人もいる。そういう人はやはり自分の身体や気持ちに対する実感がなくなってきているのではないか。離人症的な状態であったり、中には心と身体の解離が起きていて、「気が付いたら切っていた」「自分の身体から血が流れていくのを見て『あぁ私は生きているんだ』と実感を取り戻す」人もいる。

 

私はリスカした人に「痛みはあったか」「切った時のことを具体的に覚えているか」となるべく細部にわたって具体的に尋ねることが多い。自分が自分の身体や痛みを自覚できている場合と実感や記憶がない場合とでは明らかにレベルが違うからだ。


➤【リストカットの意味④】 自分を罰する

マキさん(仮名)は付き合っている彼がいた。その彼に内緒で別の男の子と遊びに行ったことがばれてひどく怒られたが、またその後一度会ったことがばれてしまった。その時彼女はリスカしたかったが、切る道具がなくて「・・・海岸にいて、気付いたら、そこらへんにあったコンテナに右腕をガンガンぶつけてた。・・・やめようとしたけど今度は地面に頭をガンガンぶつけてた。それも止められた。なんだか、自分を罰しなくちゃいけないんだって思って、傷つけたくてしょうがなかった」と証言している。また別の女性は自傷としての摂食障害として「もうおなかいっぱいでこれ以上食べられないのに、これでもか、これでもかと自分の喉の奥に食べ物を詰め込んで自分を罰して」いた状況を話してくれた。自分を傷つけるという行為はリスカに限らず、自分を罰しているという意味もあるのだ。


➤【リストカットの意味⑤】 当てつけ・復讐

エリカさん(仮名)は母親との関係が悪く、大喧嘩をしてしまうことがたびたびあった。ある時「ケンカして母親が花瓶で私を殴ろうとしてきたり、“そんなに死にたいんだったら私が殺してやる”と言われたんです。その時は私もキレて、親の目の前でリスカしました」と言う。また彼女は高校生の時に「信頼していた年上の女性に“あなたの相談内容が私には重い”と電話で言われて過呼吸気味になって、床に倒れ込んで、そのままの状態で鏡台の引き出しからカミソリを出して無意識に手首を切って」いたと言います。彼女はその時の気持ちについて「“見捨てられ不安”だったんだと思います」と言う。自分を見棄てたり拒否する相手に対する復讐や当てつけの意味で切ってしまうということもあるのだ。


➤【リストカットの意味⑥】 自殺の手段として

これはもちろん可能性があるだろう。先にリスカを含む自傷行為は「生き延びる」ためにする行為であると言ったが、だからと言って死んでしまう可能性も十分にある。また心理的なストレスを軽減する目的としての自傷行為としてではなく、「死ぬ」ことを目的として動脈を切るという行為もあるのは間違いがない。見分けはつきにくいが、「リスカをする人は死なない」というようなストーリーをそのまま信じてはいけないだろう。「自分を傷つける」自傷行為が即自殺に結び付かないとしても、その延長線上に「自殺」があるのではないか、という観点は忘れてはならないだろう。


以上リストカットの意味や目的について、リストカッターの証言を引用して説明しました。もちろんこれ以外にもあるかもしれませんし、これらの意味や目的が1つではなく2つ、3つと重なって切らずにおれない人もいるでしょう。しかしこれらの背景をつかむことができれば、それに応じた具体的な対応が考えられます。

 

言い換えれば、リストカットと言っても色々な意味があり、それに応じた対応を考えるのならば、対応は決して一つではない、ということです。「切る」と言う行為がショッキングでどうしても目を引きがちですが、そこだけに目を奪われてはいけないと思います。


自傷行為への対応①  「自傷行為への理解」

ではリストカットを含む自傷行為にどう対応すればよいのだろうか。まず考えなければならないことは、先にあげた自傷行為の持つ意味を具体的に考える必要があるということだ。リストカットは確かに自分の手首を傷つける行為ではあるが、その裏に象徴的な意味合いが含まれていると理解するべきだろう。そしてそこを見つめたうえで、本人の苦しみや切らずにおれない気持ちを理解するべきだ。

 

ところが多くの人は「手首を切る」と言う行為にだけ目を奪われてしまう。そうなると当然のことながら「そういうことをしてはいけない」「もっと自分を大切にするべきだ」という対応になってしまいがちだ。それでは本人の「わかっていても切らずにおれない気持ち」や「切ることでしか表現できないもどかしさや苦しみ」を理解できずにすれ違ってしまい、それがまたストレスとなって最悪の場合、新たな傷を作ることになりかねない。

自傷に限らず自殺などでも「切らなければ良い」「死ななければ良い」というものではない。「切ること」「死にたくなること」と表裏の関係で「生きたい」「行きる意味を取り戻したい」という願いが込められていることを忘れないようにしたい。様々な事情から「生きる意味」や「生きている自分の目的」を見失い、「生きるエネルギー」がなくなり、そしてついには「自分の存在の意味」さえ分からなくなってきた時、「切ること」で自分の身体感覚を取り戻し「痛みを感じること」で今ここにいる自分を取り戻そうとしている営みではないのか、と私には思えるのだ。

 

であれば、まずはリスカや自傷行為にネガティヴな面を見るだけでなく、ポジティヴな意味を認めよう。手首を切ることは「自分自身を傷つけること」を通して「自分の身体や感覚や存在の実感を確認しようとしている」行為なのだととらえなおしてみよう。

 

そうすれば様々なことが見えてくる。

自傷行為への対応② 「自傷行為への対応に求められるもの」

まずリストカット自体が「自分を回復する、確認する」という目的で行われているとしたら、当然そこには他者の存在が現れてくる。人はあくまでも他者との関係の中でしか自分を確認できないからだ。先に述べたリスカの意味の「人に気付いてもらいたい」「(身近な人への)当てつけ・復讐」や場合によっては「自分を罰する」という意味も「内在化された親」との関係の中で「ダメな自分」を確認する作業だろう。もちろん「ストレス発散」や「生きていることの確認」も自分自身の回復である。その延長上にはやはり自分ー他者の関係があるだろう。

 

であるとすればまず周囲の者ができる対応は、①表面的な行為への禁止や叱責ではなく、彼らの自己回復する営みへの支援をすること、そしてそのプロセスとして ②安心できる他者としてコミュニケートしながら関係の中で支えていくこと、ではないだろうか。

 

具体的には、彼らがなぜ、何を目標に「切る行為」を続けているのかを、それを彼ら自身と一緒に探索し確認していくことだと思う。

そしてそれは心から安心できる他者としか取り組めない作業であることも忘れないようにしたい。実は「なぜ切るのか」について彼ら自身も理解できていない、あるいはわかっていてもどうしようもないと思っている場合が多い。それを考えると、この作業は決して簡単な事ではない。彼らはその営みの難しさに気づいており、あるいは気づいているがゆえに目をそらすために、一時的でかりそめの自己回復の手段としてのリスカに依存しているのだ。それは「痛み止め」として一時的な効果はあるかもしれないが、根本的な解決にはつながらない。

 

だからこそ、「切る行為」の裏にある意味や目的を言葉にして、自分を見つめ問題を解決する営みを続けることは大切であり、必要な事なのだと思う。そのように安心できる他者との関係性に支えられて本来の自分を取り戻さない限り、たとえ「切る行為」がなくなったとしても、何も解決していない事と同じだろう。

最後に

ここまでリストカットのポジティヴな意味について考えてきた。もちろん自傷行為・リストカットのネガティヴな面から目をそらしているわけではない。最後にネガティブな面にどう理解し対応すればよいかについても考えてみたい。

 

 

リスカを含む自傷行為のネガティヴな意味について、どう伝えればよいだろうか。

これまで見てきたように、確かに自己確認とかコミュニケートの手段という意味でのポジティヴな意味もあるが、しかし実際にはリスカによって周囲は本人を特別な目で見がちだし、実際身体の傷が後まで残るという場合もある。そういうネガティヴなことは私はできるだけ現実的な事実として伝えるようにしている。

 

 たとえば学生の場合、進学や就職の面接などではまず有利に働くことはない。面接官も慣れたもので、たとえ手首を隠していてもきちんと見ているのだ。また傷口が跡として残った場合、やはり進学就職を控えて美容整形などで修復をしようとする人も多い。だがそれには多額の費用が掛かる。思いのほか後から後悔する場面は多いのだ。もちろん神経を傷つければ障害は残るし、動脈を切った場合は命にかかわる。

 

私はそれをきちんと伝え、損得を考えるように勧めることは忘れないように心がけている。

そしてもし「切る以外の代替手段」があるならば、具体的な方法を一緒に考える。

切る事を批判も叱責もしないが、もちろんお勧めもしない。

切らずにおれない気持ちは理解するが、できれば現実的な損得を考えて別の手段をとるにこしたことはない、ということは伝えたい。

勿論一番勧めているのは、なかなか難しいけれど切らずにおれない気持ちを行動化せずに誰かに言葉で話すことだ。誰かに支えてもらいながら自分の生きづらさに向き合うことだ。

 

その上で自分の生き方としてどうするかを自分で判断してもらうことから始めたいと思っている。